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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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カテゴリー「中原中也の詩に出てくる人名・地名」の記事

2013年4月28日 (日)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」29・まとめ23

(前回からつづく)

「修羅街輓歌」は「白痴群」第5号(昭和5年1月1日発行)に合わせて
昭和4年(1929年)11月に制作されたことが推定されている作品(初出、第1次形態)。
「白痴群」第5号の発行直後の時点で
グループの崩壊は決定的でした。
大岡昇平と詩人が
安原喜弘の目黒の家での同人会で喧嘩してしまったのです。

前々年(昭和3年)の5月から前年(昭和4年)1月まで
関口隆克らと「北沢」で共同生活し
昭和4年1月には渋谷・神山(現富ヶ谷)の阿部六郎の下宿の近くに住んでいました。
第1号の発刊は昭和4年4月です。

「修羅街輓歌」は
大岡昇平と詩人が喧嘩した昭和5年1月の直前に作られたことになります。
直前というより
二人の仲は以前から険悪であったことからすれば
この時に「爆発」してしまったということです。

詩の内容が
これらを背景にしていることは疑いなく
そう考えながら読むと
吐き出されたように歌われた詩の姿が現われ
しかし、「謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。」などには
冷静になろうとする内面が映し出されているのを知ります。

「羊の歌」は
詩集「山羊の歌」を編集中の昭和7年に制作(推定)されたものです。
(初稿は前年6年という推定もあります)。

最終章「羊の歌」に
「羊の歌」「憔悴」「いのちの声」の3作品があり
「羊の歌」をその冒頭詩に配置したのですが
詩集編集(の最後)の段階で
献呈詩としては詩集の最後部に配置したのです。

「山羊の歌」をめくり返すと
「羊の歌」から3作をはさんだ前に「修羅街輓歌」があります。
献呈詩としてこの二つの詩は並んでいる(続いている)ということになるのです。

中原中也がこの配置に無意識であったなどとは
到底、考えられないことです。

そのことを明かすのが
CD「関口隆克が語り歌う中原中也」というCDのジャケットに収められた解説文です。
このCDを最近聴くことができ
関口隆克の肉声をたっぷり味わえたのですが
このCDの出版(発売)の経緯を
安原喜弘の長男である安原喜秀さんが書いています。

このCDの元になったテープが発見された経緯が書かれた部分をここに引用させていただいて
「中原中也の詩に出てくる『地名・人名』」の結びと致します。

(略)
このいきさつを述べるにはまず私の父・安原喜弘と関口氏との関係について触れねばならない。すでに知られているように、父と詩人・中原中也は生前親しい友人であった。その出会いは、父が尊敬していた先生(成城学園の小原国芳校長)のもとの成城高校時代からはじまっている。その後その親交は、父にとっては「生涯の大事件」というほど深い傷となって残った。

詩人の死後、戦争下をなんとか潜り抜けた父は戦後、先生から玉川学園に来て欲しいと懇請されて、そこで働いたものの、生活の困窮を強いられ、やむなく決別し妻子を抱え路頭に迷った。困り果てた父は、1953年の春、中原中也の縁で知遇を得ていた関口氏を訪ねた。

生活上の活路も開かれ、関口氏との直接の交流が再び始められた。

以後終生、父は「リュウコクさん(隆克を音読みにした呼称を父たちはつかっていた)のところに、子供の私や母を連れてお邪魔したり、ウマがあうとでもいうのか、親しいお付き合いを続けた。

父の死(1992年11月)後、私は父が語らず公表しなかったことを書き残しておこうと、中原中也に関する文献にも目をとおすうちに、詩人にとって関口氏と父はある種特別な友人ではなかったかと考えるようになった。その考えをあと押しするような証言が下記の、詩人の母・フクさんが語ったとされる次のことばである。

「それから、関口隆克さんは中也もいちばん好きな人だったし、ずいぶんお世話になった人ですが、やはり山口にきてくださいました。中也は人のことを、あれはどうじゃ、これはどうじゃというて、よう悪ういっておりましたけど、関口さんのことと安原さんのことは、いつでもほめておりました……」(中原フク述・村上護編「私の上に降る雪は~わが子中原中也を語る」1973年刊 P263)
(以下略)

明日4月29日は、詩人の誕生日。
生誕106年になります。

新聞・雑誌での言及や各種イベントが盛んに行われていますことを
心からうれしく思うこのごろです。

大岡昇平とは異なる見方の評価の動きが
遅々としながら起こっていることも
あらためて中原中也という詩人の現代性を証してうれしい限りです。

(この項終わり)

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ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」28・まとめ22

(前回からつづく)

思いつきで
中原中也の詩に現われる「地名・人名」についてコメントしてきました。
飛ばしてしまったり
簡単に済ませてしまったものがあることをご容赦願います。

詩の中に現われない場所(地名)や人名は
ほかに数え切れないほどあったに違いありませんが
詩人が、詩の要請から固有名を詩語にしたのには
特別の愛(着)があったからであろうことが推測されます。

読み返してみて
【安原喜弘】を【青木三造】に焦点を当て過ぎた案内になっていることに気づきました。

【安原喜弘】は「山羊の歌」の最終章「羊の歌」の冒頭詩「羊の歌」が献呈されている親友です。
「白痴群」が廃刊し同人たちが詩人から離反していった後にも
詩人の最も近くにあって第1詩集「山羊の歌」の出版をサポートしたことはよく知られています。

最終章「羊の歌」の前にある章「秋」に「修羅街輓歌」があり
こちらは【関口隆克】への献呈詩ですが
「山羊の歌」の最終部に安原喜弘と関口隆克への献呈詩があることには
大きな意味があるようなので
最後にそのことにふれておきましょう。

「山羊の歌」にある献呈詩の相手は
河上徹太郎「ためいき」
内海誓一郎「更くる夜」
阿部六郎「つみびとの歌」
関口隆克「修羅街輓歌」
安原喜弘「羊の歌」
――といううちわけですが
終わりの二人は「特別な中でも特別な友人」ということがわかってきました。

それを紹介する前に
この献呈詩2作を読んでおきます。

修羅街輓歌
       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!

われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほう)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

 

今回はここまで。

(つづく)

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2013年4月18日 (木)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」27・まとめ21

(前回からつづく)

★このブログ中に、詩人・佐々木幹郎さんからいただいた「訂正」についての記事を新たに加えました。加えたのは、★から★までの文です)。2013年4月20日夜、合地舜介。

長谷川泰子が「白痴群」に寄せた詩は第3号だけでなく
第4号にもあります。

秋の野菜スープ
小林佐規子

小さなお家の主婦様は、日毎日毎、たった一つの小さな窓へ、木の葉のような顔を出し、頬杖ついて何とはなしに、地底の唸りを聞いていたが、とうとう有益なことを考えついた。
今日は御主婦様には弁慶縞のエプロンに研究心に鼻うごめかし、スープ鍋の音をきいていた。
秋の密度は御鍋の蓋に重なって、湯気とまるまりながら、お乳房(ちち)の中へ沁みてゆく、ああこれで血液が流れ始めました。味は緻密、愛があればよろしい、このキャベージの味は貴方を子供のように笑わせ、このトマトの厚みは貴方の琴線に触れる。
あれ御らんなさい。
おとなりのお神さん、延びた口を突き出してこっちをのぞいて何かぶつぶつ云ってるよ、
今にあの神さん、真似をする。
そこで、やっと御汁がごとごと鳴ってきたが、このとろけたお汁を飲ませると、必度貴方は幸福だなあと、居眠りをするでしょう。
(「白痴群」第4号、昭和4年11月)
※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直しました。編者。

「小林佐規子」は
中原中也から去った泰子が
小林秀雄と同棲しはじめてしばらくして
小林の母親のすすめで改名したものです。

この詩の中の「貴方」は、小林秀雄でしょうか。中也でしょうか。
「奇怪な三角関係」のハイテンションが
泰子の詩ののっぺりした響きの背後に隠れているように感じられますが、どうでしょうか。

長谷川泰子は、1993年(平成5年)4月11日に89歳で亡くなりました。
中也はもちろん、小林秀雄、大岡昇平が見なかった平成を少しだけ生きたのです。

このことで、是非とも付け加えておきたいことを記しておきます。

詩人・佐々木幹郎が1988年に書き下ろした近代日本詩人選「中原中也」(筑摩書房)は
1994年にちくま学芸文庫として刊行されるのですがその巻末に
「旅路の果て――その後の長谷川泰子――文庫版のあとがきにかえて」の題で
脚本参加したドキュメンタリー映画「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督、1976年)に触れた収録エピソードが記されます。
その中に、中原中也や大岡昇平や小林秀雄ですらが見なかった「女優・長谷川泰子」が
生き生きととらえられていて鮮烈ですから、ここでほんの一部を案内しておきたいのです。

(略)
 映画「眠れ蜜」の最終シーンでは、長谷川泰子さんは誰もいない劇場の舞台の上で、即興のダンスを踊る。長い長い踊りだ。途中からは靴を脱ぎ捨て、裸足のままだ。「モーツアルトの曲なら、わたしはいつでも踊るわよ」と初めて会ったとき、泰子さんはわたしに言った。昭和初年代のモガ(モダン・ガール)の先端を走った、かつての長谷川泰子。その溌剌とした雰囲気がまだ健在だった。わたしはその元気の良さに舌を巻いた。だから脚本に、踊りのシーンを強引にはめこんだのだった。

 現場でのバック・ミュージックはモーツアルトではなく、ギター曲の「アランフェス協奏曲」になった。空っぽの舞台のうえ。一人で長く踊り続ける彼女の姿を、わたしは劇場の天井桟敷から見た。次第にふつふつした感動が、身体の奥底から立ちのぼってくるのを止めることができなかった。彼女は自己流の振付けをやり、リズミックな動きで曲に完全に乗りきっている。老いることの、華やかさと力強さがそこにあった。

 わたしも映画のスタッフも、彼女の人生の最後を、かつて中原中也や小林秀雄の間で生きた伝説の女性としてではなく、一人の女優としてだけ見たのだった。撮影中、会うたびに若返っていく彼女を見るのは楽しかった。当時の長谷川泰子さんは、自分が老人であることは少しも思っていなかったようだ。
(略)

※「行空き」を加えてあります。編者。
※この文章は、1994年10月に書かれたものです。

★文中に「アランフェス協奏曲」とありますが、ちくま学芸文庫巻末の「旅路の果て――その後の長谷川泰子――文庫版のあとがきにかえて」では、「アルハンブラの思い出」となっています。正しいのは「アランフェス協奏曲」であることを、著者の・佐々木幹郎さんが指摘してくださいました。佐々木さんからのコメントの全文をここに掲載させていただきます。

<佐々木幹郎さんのコメント>

ちくま学芸文庫版「中原中也」(1994)の巻末に収録した「旅路の果て-その後の長谷川泰子」を引用していただいてありがとうございました。この本は現在、絶版となっていますので、修正箇所が1箇所あるのですが訂正できません。いずれわたしの単行本に収録するとき訂正するつもりですが、ちょうどよい機会なので、この場をお借りして、伝えさせてください。

映画「眠れ蜜」の最終シーンで、長谷川泰子が踊るバックに流れているギター音楽のことです。

×「アルハンブラの思い出」
○「アランフェス協奏曲」

「アランフェス協奏曲」に訂正します。うっかり書き間違えたままで最終校正の際に見逃したものです。お詫びいたします。現在、この映画は中原中也記念館にDVD版で所蔵されていますので、ご覧になりたい方は、いつでも記念館で見ることができます。★

今回はここまで。

(つづく)

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2013年4月16日 (火)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」26・まとめ20

(前回からつづく)

中原中也の詩に現われる「人名」のうちの日本人を見てきて
残るのは、【泰子】【小林秀雄】【昇平】だけとなりました。

【小林秀雄】は新潮社から全集14巻(別巻2)が出ており
【(大岡)昇平】も筑摩書房から全23巻(別巻1)が出ている「大文学者」ですから
ここで述べることは控えておき、生没年だけを記憶しておきます。

小林秀雄は、1902年(明治35年)4月11日~1983年(昭和58年)3月1日、
大岡昇平は、1909年(明治42年)3月6日~1988年(昭和63年)12月25日です。

【(長谷川)泰子】の生没年は、1904年(明治37年)5月13日~1993年(平成5年)4月11日で
す。生年は、小林、泰子、中也、昇平の順。泰子は、平成の世の中を少しだけ生きました。

長谷川泰子については、詩人・佐々木幹郎が脚本を書いたドキュメンタリー映画「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督、1976年)や、作家・村上護の聞き書き「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」が詳しいほか、本人が中也について書いた「中原の思い出」「思い出すこと」などで知ることができます。

ここでは、泰子が「白痴群」に寄せた詩を読んでみます。

詩三篇
小林佐規子

  悧巧な世界

夏の夜は黒い土が身にしたしいのです。
人々の肌と呼吸から製された夜気が流れます。
皮膚と、心臓が、合して、
人様が美しい白い蟲になり、
それぞれ物がたりが好きになります。
だから、とても、噪ぎたいのですが。
笑いが途中で止まって、その続きが本格の千鳥足になります。
なんと、悧巧な世界ではありませんか。

  礼讃

芳淳な血はないかも知れません。
はじめから整理されて感情が動きますから。
簡単な笑いから出るむらぎの心は、
規約がなくて時々あふれてしまうし。
結構です。
人間のとっておきの自然の論理。
のんきに哀愁、体を健康にしましょう。
怒ると、数字や青物市場や突走りやバナナ店のせり上げのとび出す、
ええ今日は。何故ご機嫌がいいんです。
美しい生理の獣さん。
中々しっかりしたものですよ、あまり間違いのない。
とっておきの自然界の論理家です。

  ある夜

南京豆の皮のはしきれ。
なまめくかなしみは、胸に移る。
灰はざらざら。
人の声はしみて来ない。
夜は戸外でそのあたりに、
とまり、
じつにじつに平凡な夜でした。
(「白痴群」第3号、昭和4年9月)

※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直しました。編者。

中也の詩から学び取ろうとした跡が見えて、なんだか愛(いと)おしくなります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年4月 6日 (土)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」25・まとめ19

(前回からつづく)

【青木三造】は、安原喜弘(1908年5月19日~1992年11月4日)をモデルにした詩のタイトルです。第1詩集「山羊の歌」の出版を大きな力でサポートした親友として知られる安原も、「白痴群」の同人であり、「成城ボーイ」です。昭和15年に「文学草紙」という同人誌に中原中也の手紙を連載で紹介しましたが、太平洋戦争で中断、戦後の昭和25年にユリイカ社から「中原中也の手紙」として単刊発行しました。小林秀雄による中也の没後評価に続く、もっとも早い時期の中原中也評価の一つです。

中也が書いた手紙は、中原中也全集に収録されるなど、第一級資料としての価値をいよいよ高めていますが、安原は昭和54年に再編集して同名タイトルで玉川大学出版部から再刊します。安原亡き2010年には、講談社文芸文庫に入りました。同文庫の案内に、「中原中也を取り巻く青春群像の中で例外的に安定した温かい交友を持続させた安原喜弘。その手元に遺った一〇〇通は、現存する最多の中也書簡である。同人誌を共に立ち上げ、詩集『山羊の歌』出版のために献身、小林秀雄、大岡昇平、富永太郎等すべての仲間が中也と諍い去って行った後も、傍らに寄り添い、傷ましい魂の遍歴を見守りつづけた。中也の書簡と自身の回想で織りなす稀有なる友情の証。」とありますが、このあたりには、大岡昇平の畢生(ひっせい)の伝記大作「中原中也」に欠けていたアングルを差し出して、いまや入門の書であり必読の書となった背景が案内されています。

玉川大学出版版「中原中也の手紙」には、「中原中也のこと」「詩人との出会い――中原中也のこと」という小論を寄せています。「詩人との出会い――中原中也のこと」の一部を読んでおきましょう。

(略)
こうしてこのあと昭和9年の12月に文圃堂書店から出版のはこびとなるまで、丸2年ちょっと、「山羊の歌」の本文はその紙型とともに私の家の納戸にねむることとなった。

本文印刷中の9月ころから、彼の魂の平衡はみだれ、いわゆる神経衰弱的徴候をみせはじめていたことは前にふれたが、その年の12月ごろ、それは頂点に達した。後に彼は、昭和11年末から翌12年の春にかけて、長男文也の死に対する悲愁から激しい神経衰弱症状を起こしたが(これを私は「第2の動乱」と自分なりに呼んでいるのだが)、昭和7年のそれは、遙かに激しいものであった。幻想と被害妄想と強迫観念と、昼夜をわかたず詩人の心をさいなんだ。酔うと荒れ、誰かれとなく激しく衝突した。凄まじいばかりであった。

(略)

この動乱の期間中、むしろ詩人の心には詩集はなかったとさえいえるだろう。この時期、彼の心の中には、もっとほかの何かが、根強く渦まいていた。この時、彼の親しい友人たちも多くは彼を避け、あるいは不仲となり、詩集の話はほとんど彼の口からは出ていない。私の記憶するかぎり、印刷ができあがってからは、詩集の話はほとんど彼の口からは出ていない。彼の口にするのは、離反した友人たちの名であった。

詩人の内部に積もる鬱積(うっせき)を吐き出すために、
二人は、よく酒を飲みました。
「青木三造」の後半部は、その様子を歌っています。
前半部は、安原の人となりを文語調の中に歌います。

青木三造
 
   序歌の一

こころまこともあらざりき
不実というにもあらざりき
ゆらりゆらりとゆらゆれる
海のふかみの海草(うみくさ)の
おぼれおぼれて、溺れたる
ことをもしらでゆらゆれて

ゆうべとなれば夕凪(ゆうなぎ)の
かすかに青き空慕(した)い
ゆらりゆらりとゆれてある
海の真底の小暗きに
しおざいあわくとおにきき
おぼれおぼれてありといえ

前後もあらぬたゆたいは
それや哀しいうみ草の
なさけのなきにつゆあらじ
やさしさあふれゆらゆれて
あおにみどりに変化(へんげ)すは
海の真底の人知らぬ
涙をのみてあるとしれ
   
   その二

  冷たいコップを燃ゆる手に持ち
  夏のゆうべはビールを飲もう
  どうせ浮世はサイオウが馬
   チャッチャつぎませコップにビール

  明けても暮れても酒のことばかり
  これじゃどうにもならねようなもんだが
  すまねとおもう人様もあるが
   チャッチャつぎませコップにビール

  飲んだ、飲んだ飲んだ、とことんまで飲んだ
  飲んで泡吹きゃ夜空も白い
  白い夜空とは、またなんと愉快じゃないか
   チャッチャつぎませコップにビール。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年4月 4日 (木)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」24・まとめ18

(前回からつづく)

中原中也の詩に現われる「人名」のうちの日本人を見ていますが
面識があった人物のうち「白痴群」に属し「成城ボーイ」でもあったのは
【阿部六郎】【青木三造(=安原喜弘)】、【(大岡)昇平】の3人でした。

【阿部六郎】は、大正・昭和の青年の必読書「三太郎の日記」を書いた阿部次郎の弟。中原中也とは昭和3年5月に初対面し、その時、成城高校のドイツ語教師でした。やがては「阿部六郎全集」全3巻を残す日本で指折りのドイツ文学者になりました。渋谷・神山に住み、近くへ中原中也も引っ越してきてから、交友は深まりました。この住まいについて、「ペンキぬりの洋館風の家で、2階に3部屋あり、階段をあがってとっつきが阿部の部屋、その南隣が私の部屋」と同宿していた村井康男は記しています(「思い出すままに」)。この時期は、「白痴群」創刊から第6号で廃刊になる時期と重なっていますから、特に頻繁な行き来があったようです。中原中也が酔った勢いで、民家の軒灯のガラスを壊し、渋谷警察署に留置されたのも昭和4年4月のことで、中原中也は15日間、阿部も村井も5日間の拘留処分を食らっています。阿部はこ頃の日記を残していますから、それを少し読んでみます。

5月12日

 日が暮れた。谷の向うの赤屋根の家では、今朝ベランダで子供と一緒に叫んでいた少女が緋色の蒲団をしまって行った。白い路の端の街灯の光がだんだん鋭くなってくる。柔い木立に煙っているこのセザンヌ風の風景を私はこの暮方ほど嬉しく眺めたことはない。
 明日は旅に出る。帰って来た翌日には、もうこの窓ともお別れだ。

 この宿で私は歴史から没落した。そして、中原の烈しく美しい魂と遭った。中原との邂逅は、とにかく私には運命的な歓びで、又、偶然には痛みでもあった。

 中原はいま、幾度目かの解体期にぶつかっている。昨年初冬、私と一緒に入って行った義務愛に破綻し、存在にも価値にもひどい疑惑に落ちている。そして、不思議な因縁で離合して来たも一つの罰せられた美しい魂と一緒にいま、京都に行っている。生きるか死ぬかだと言う彼の手紙は決して誇張ではないのだ。「どっちがお守りをされるのか分らないのよ」と言った咲子さんの顫え声にも、私には勿体ないほどのしんじつを感じる。
 だが、私にはそれをどうすることができよう。

※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」表記に直しました。適宜、改行を加えてあります。編者。

昭和4年5月12日の日記ですから、
中原中也、村井康男、阿部六郎の3人が渋谷警察署に留置された直後のものです。
「義務愛に破綻し」とあるのは、「白痴群」の廃刊のことでしょう。
冒頭の「赤屋根の家」とは、
代々木練兵場(後に「ワシントン・ハイツ」と呼ばれる米軍の住宅)のことでしょうか。
その周辺の住宅の風景でしょうか。
向かいは丘になっていて、
その様子が、阿部らの住まいからくっきりと眺められたのです。

「咲子さん」は、長谷川泰子のことです。
中原中也は、留置から解放されてすぐの5月に、泰子と京都への小旅行に発ちました。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年3月30日 (土)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」23・まとめ17

(前回からつづく)

中原中也の詩に現われる「人名」のうちの日本人を見ていますが
面識があった人物のうちの

【河上徹太郎】
【内海誓一郎】
【阿部六郎】
【青木三造】
【昇平】
――の5人は同人誌「白痴群」のメンバーでした。このうちの3人【阿部六郎】【青木三造】【昇平】は、いわゆる「成城ボーイ」です。【青木三造】は安原喜弘、【昇平】は大岡昇平であることは言うまでもありません。

【関口隆克】は1904年生まれ1987年死去ですから、中也より3歳上の人。昭和3年春、旧友の石田五郎と北沢の1軒家で自炊生活をしていたところへ中原中也が転がり込んだというのが二人のなれそめでした。「スルヤ」の諸井三郎が中也を関口の住まいに連れてきたのです。文部省の役人を務めた後、開成学園中学そして高校の校長になります。生徒たちから「りゅうこくさん」と親しまれた教育畑の人です。中原中也について幾つかの文章を残しています。その一つ「北沢時代以後」は、昭和12年「文学界」の12月号に載せた追悼文です。中から、少しだけ抜粋(ばっすい)しておきます。

(略)3人の生活と云っても、一切は五郎さんがやった。朝早く炭火を熾す焚付けの煙が家中に流れていて、井戸のポンプを押す音の中に低い五郎さんの口笛が聞えるのを、隣合せのベットの中に寝ている中原は大きな眼を開けて聞いていた。晩方になると3人が3人で夕食の材料をぶらさげて帰ってくる。中原はみつばのしたしが好きで毎日それを買って来たが時期によって値段に高低のあることに気付かなかったので、20何円か八百屋に支払った月があった。中原は料理には知識もあり自信もあったが、当座の用にはたたなかった。五郎さんが黙っててきぱき調理している傍で、中原は次ぎ次ぎに失敗をしては、何の手助けも出来ないのを悲しんだ。ただ、葱の刻んだのを水に晒してソースをかけて食べる料理は中原の発明で、それを作るのは中原に限ることになっていた。布片にくるんで長いこと氷の様に冷たい井戸水の中に入れてもんで、きらきら光る白い葱の山を皿にのせて運んで来る時に、中原は嬉しそうであった。(略)
(※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直してあります。編者。)

中也の満足そうな顔が見えるようです。詩作品には見られない「とろけるような幸福の時」が関口によって書き残されました。

【諸井三郎】(1903年8月7日~1977年3月24日)は、「スルヤ」をリードしていた作曲家で、後に幾つかの交響曲やオペラなどを発表、その名を音楽史にとどめました。内海誓一郎と同じく中原中也の「朝の歌」「臨終」「老いたる者をして」に曲を付けました。中野の「炭屋の2階」で中原中也から作曲を頼まれたシーンを回想する口ぶりは、内海とまるで同じです。諸井と内海と関口と……が、「炭屋の2階」へ案内され、「山羊の歌」の「初期詩篇」の書かれた原稿用紙の束を読んだのです。

諸井の回想「『スルヤ』の頃の中原中也」を少し読んでおきましょう。

中也と私との出会い、これは今でもはっきりと憶えている程印象の強いものだった。そのころ中野駅の近くに住んでいた私は、ある日、買物をしようと家を出た。少しいった細い道で、まことに変った格好をした一人の若者とすれ違った。一目で芸術にうつつを抜かしているとわかるような格好だったが、黒い、短いマントを着、それに黒いソフトのような帽子をかぶった、背の低い、小柄なその人物は、一種異様な、しかし強烈な印象を与えずにはおかなかったが、お互になにか心にひっかかるのを感じながら、その時は、そのまますれ違ってしまった。

買物をすませて家に帰り、しばらくして家で休んでいると、玄関に人の声がする。出て見ると、そこにはさっきの黒ずくめの青年が立っている。私は用件をたずねると、彼は一通の紹介状を出した。それは河上徹太郎の書いたものだったが、それによって、私は彼が中原中也なる詩人であることを知ったわけである。この日から、約半年間、中也は毎日私の家に来ていた。彼は、大通りをへだてた私の家と反対側の炭屋の2階に住んでいたが、毎日夕方になると私の家にあらわれる。そして、まず煉炭ストーブの用意をし、それから芸術の話をする。夕食をいっしょにしてから、たいてい夜中の2時頃まで語り合い、そして帰っていくのだった。半年間は、これが彼の日課だったわけで、今考えると、よく話すことがあったものだと思う。(略)。
(※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直してあります。編者。)

「半年間、毎日」というのが大げさでない、詩人と音楽家のぶつかり合いが髣髴(ほうふつ)としてきます。

【青山二郎】は、新宿・花園アパートの主(あるじ)。ひとときは、「梁山泊」もしくは「鬼の棲み家」に喩えられるほど様々な人間が出入りしました。大岡昇平はここを「青山学院」と呼びました。中也も孝子夫人と生まれたばかりの長男文也とともにここの2階に住んでいたことがあります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年3月27日 (水)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」22・まとめ16

(前回からつづく)

中原中也の詩に現われる「人名」のうちの日本人を見ていますが
残るのは、面識があった人物だけとなりました。

【河上徹太郎】
【内海誓一郎】
【阿部六郎】
【関口隆克】
【泰子】
【安原喜弘】
【諸井三郎】
【小林秀雄】
【青山二郎】
【青木三造】
【高橋新吉】
【昇平】
【秋岸清凉居士】
――ですが、このうち【秋岸清凉居士】は弟恰三の戒名ということで別格とすれば、
ほかは極めて近くに存在した「当事者」みたいな人ばかりです。

【青木三造】は、中也からの手紙・葉書を合計101件を保存していた親友安原喜弘をモデルにした小説や詩の主人公名ですし、【泰子】【小林秀雄】【昇平】は中也を巡る実人生のドラマのコア(核)になるキャラクター(登場人物)ですし、【河上徹太郎】【内海誓一郎】【阿部六郎】【関口隆克】【諸井三郎】【青山二郎】も、中也の交友圏内の至近距離に存在した人々でした。

【高橋新吉】は、何度か面談しているダダイストで、ふだんの交流はなく、交友というよりは文学上の先輩格でした。中原中也は自ら書いた小自伝「詩的履歴書」に「大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その年の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激。」と記しました。

ここで「ダダイスト新吉の詩」の中の詩を一つだけ読んでおきましょう。

(皿)

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
 倦怠
 額に蚯蚓這う情熱
白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の白い女
 其処にも諧謔が燻すぶっている
  人生を水に溶かせ
 冷めたシチューの鍋に
退屈が浮く
 皿を割れ
 皿を割れば
倦怠の響が出る

※「新かな」表記にしてあります。編者。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年3月26日 (火)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」21・まとめ15

(前回からつづく)

中原中也の詩に現われる日本人を見ています。

【松井須磨子】(まつい すまこ)といえば、なんといっても「カチューシャの唄」を歌った女優として有名です。1913年(大正2年)、劇作家・詩人島村抱月とともに芸術座を旗揚げ、トルストイの「復活」翻案劇の中で「カチューシャの唄」を歌ったところ大評判になり、以後、須磨子は劇以外の場所でもこれを歌い、レコードも出しました。妻子ある抱月との恋愛でも話題になっていましたが、抱月がスペイン風邪をこじらせて急逝した翌1919年、後を追って自殺したことが伝わっています。1886年(明治19年)生まれですから、30代半ばでの生涯でした。

松井須磨子は、「脱毛の秋 Etudes」第8連に登場します。その部分を読んでおきましょう。

   8
とある六月の夕(ゆうべ)、
石橋の上で岩に漂う夕陽を眺め、
橋の袂(たもと)の薬屋の壁に、
松井須磨子のビラが翻(ひるがえ)るのをみた。

――思えば、彼女はよく肥っていた
綿のようだった
多分今頃冥土(めいど)では、
石版刷屋の女房になっている。――さよなら。

【白秋】はむろん「北原白秋」のことです。1885年(明治18年)1月25日生まれ1942年(昭和17年)11月2日没。詩人であり童謡作家であり歌人でもありました。松井須磨子より1年早い生まれです。明治末から大正、昭和初期・中期に多方面で活躍し、終戦をむかえる前に亡くなりました。詩集「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」「白金之独楽」「水墨集」「海豹と雲」など、歌集「桐の花」「雲母集(きららしゅう)」「白南風(しらはえ)」「黒檜(くろひ)」など、童謡集「からたちの花」「トンボの眼玉」を残しました。ほかにも、「松島音頭」、「ちゃっきり節」などの民謡や、童謡の多くは現在も歌い継がれています。国民的愛唱歌になっている童謡には、「雨降り」「ゆりかごのうた」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」などがあります。

萩原朔太郎が第1詩集「月に吠える」を出版して詩壇に衝撃を与えたのは大正6年ですが、この詩集の序文を白秋が書いて応援したのも有名なことです。中原中也は、やがて「四季」を通じて萩原朔太郎の知遇を得ることになりますが、白秋と会うことはありませんでした。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年3月25日 (月)

ひとくちメモ・中原中也の詩に出てくる「人名・地名」20・まとめ14

(前回からつづく)

中原中也の詩に現われる日本人を見ています。

【丹下左膳】(たんげさぜん)は、林不忘(はやしふぼう)の新聞小説に登場する隻眼隻腕(せきがんせきわん)の剣術使いのことですが、映画化されて、一躍時代のヒーローとなった架空の人物です。中原中也は、おそらく映画で見たか、映画の案内を新聞・雑誌で読んだかして、丹下左膳のことを知ったのであろうと推察されます。嵐寛寿郎、大河内伝次郎、阪東妻三郎、大友柳太朗といった俳優が次々に左膳を演じ、国民的人気を博しました。

【大高源吾】(おおたかげんご)は、討ち入りで名高い赤穂四十七士の一人。藩主の浅野長矩(あさの・ながのり)の死後、江戸に出て脇屋新兵衛と変名し吉良義央(きら・よしなか)邸をうかがった浪士として有名です。討ち入り後に切腹しました。俳人でもあり、子葉と号した実在の人物です。

【三富朽葉】は「みとみ・くちは」または「みとみ・きゅうよう」と読みます。1889年(明治22年)生まれ1917年(大正6年)没の詩人。フランス象徴詩に関する評論を翻訳し、論文を著しました。中原中也は、昭和9年9月に書いた未発表評論「無題(自体、一と息の歌)」に、「後期印象派の要求が要望される限り、明治以来今日に到るまで、辛うじて三富朽葉と、岩野泡鳴を数えることしか出来ないように思われる」などと述べています。また、昭和11年(1936年)10月30日の日記に、「先達から読んだ本。リッケルトの「認識の対象」。コフマンの「世界人類史物語」。「三富朽葉全集」。「パスカル随想録(抄訳)」。「小林秀雄文学読本」。「深淵の諸相」。「芭蕉の紀行」少し。」――などと記しました。全集を仕入れるほど、三富朽葉は、岩野泡鳴らとともに、ランボーなどフランス詩の翻訳に没頭していた詩人に必読書のようでした。

今回はここまで。

(つづく)

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