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カテゴリー「024「在りし日の歌」曇天へ」の記事

2009年5月13日 (水)

「曇天」というエポック<2>

ここで、
「草稿詩篇1933〜1936」が
作られた時期から
最晩年へ至る
詩人の年譜を見ておきます。

 

「曇天」(1936年5月制作)の位置が、
少し、見えますか。

 

「曇天」は、
長男・文也の死より前に書かれ
この時、詩人は、文也の死を夢にも思っていませんでした。

 

もう一つ。
この時期、
詩人は、
東京外国語学校専修科を修了しました。
フランス語の勉強をブラッシュアップし
ランボーの訳者としての仕事が
評価されていることに注目しておきましょう。

 

 

 

1931年昭和6年    東京外国語学校入学。
             弟・恰三が病死。
1932年昭和7年    山羊の歌」編集を開始。資金不足で中断。
1933年昭和8年     東京外国語学校専修科修了。
              上野孝子と結婚。東京四谷の花園アパートに住む。
              いくつかの同人誌に作品発表。
              訳詩集「ランボオ詩集<学校時代の詩>」を三笠書房から刊行。
1934年昭和9年    長男・文也が誕生。
              「山羊の歌」を文圃堂から出版。
1935年昭和10年   小林秀雄が「文学界」編集責任者となり、中也の発表増加。
1936年昭和11年    6月、訳詩集「ランボオ詩抄」を山本書店から刊行。
              11月、長男・文也死亡。
              12月、次男・愛雅誕生。
              中也の神経は衰弱しはじめる。
1937年昭和11年   千葉県の療養所に入院。
              鎌倉転居。夏に帰郷。 
              9月、「ランボー詩集」を野田書房から刊行。
                          同月、「在りし日の歌」を編集。
              10月に結核性脳膜炎を発病。同22日に永眠。

 

 *
 曇天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。

 

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」

2009年5月12日 (火)

「曇天」というエポック

Photo

 

ここで、
「曇天」を
じっくり、
読んでおきましょう。

 

ある日の朝、
空は曇りで、
都会の、
瓦屋根の上の、
さらに向こうの高い所に、
黒い旗が
はためいているのを、
詩人は見ました。

 

ハタハタハタハタ
その黒い旗は
確かにはためいているのですが
高いところにあるので
音は聞こえてきません
でも、確かに、
はたはたはたはた……と、
音が聞こえるかのように
はためいているのです

 

ぼくは、手をさしのべて
旗を下ろそうとしたのですが
網もなく、そんなことできるわけがなく
旗は、ハタハタハタハタはためくばかりです
空の奥の奥に舞い入るように
はためいているだけでした

 

こんな朝が、ぼくの少年時代にもあったなあ
何度もあったなあ、と、ぼくは思い出す
あの時は、野原の上
今は、都会の瓦屋根の上

 

あの時と今と、時は隔たっているし、
こことあそこと、場所も違うけれど
ハタハタハタハタ
空にポツンと一人
まるで、あれは、ぼくがそこにいるかのように
今も昔も変わらないで
ハタハタハタハタ……
懸命にはためいている
黒い旗よ
スゴイぞ!スゴイぞ!

 

「曇天」は、
1936年(昭和11年)、
「改造」7月号に発表されました。
総合雑誌へ中原中也がデビューしたという
エポックメーキングな作品です。

 

「曇天」で、われわれは彼がようやく幻想を手なずけはじめた
のを知る

 

と、大岡昇平は、
この詩に
一定の評価を与えたのです。

 

 *
 曇天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。

 

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」

「曇天」までのいくつかの詩<25>我がヂレンマ

Dilemmaは、
もとギリシア語で、
diは、二つのこと、
lemmaは、仮説のこと。
現代日本語では、ジレンマだが、
中也は、ヂレンマとしました。
板挟み(イタバサミ)の状態を表します。

 

俺の血は、もう、
孤独の方へ孤独の方へと
流れていた
けれど、
俺は、よくまあ、
人と会い、
人と議論することが多かった
俺の、孤独好きの血は、
だから、どうしてよいか、
戸惑うばかりだった
お人好しだから、
付き合いに乗り
酒がはいり、
くだらん話に熱中するのだった

 

後になって
いつも悔やむのだった
とはいうものの、
孤独に浸っていることも怖いのだった
とはいうものの、
孤独でいることを捨てられないのだった
このように
生きるってことは、
それについてを考えるだけで苦痛だった

 

閉じこもっていないで
野原に出て遊んだらどうか
という声があって
俺も、そう思い、
遊ぼう、遊ぼう、と思った。
でも、そう思うことが、すでに、俺が、
社会からますます遠ざかることになることだった

 

そうして俺は
野原に出ることもやめるのだったが
だからといって
人と付き合いをよくするということでもなかった
俺は、書斎にこもっていた
書斎で、腐っていた
腐っている自分をどうすることもできないでいた

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。--しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「曇天」までのいくつかの詩<24>寒い!

「寒い!」は、
確かに、心境告白ありのままって感じで、
めんめんと内部を披瀝しています。

 

それを、
寒い、と、表現するところに
詩への意志はあり、
どうやら、それは
それほどスムースにはいっていない
友人との関係、
対社会関係、
政治的な人々との関係、
お調子ものたちとの関係
……
の中での、
詩人の嘆きであり
それらの関係を作り出すものへの
批判の意味も込められているようです。

 

青山学院は
中也にとって
居心地のよい場所ではなかったのではないか
と思わせるものさえ
ここから感じ取ることだって可能です。

 

毎日寒いなあ、寒くてやりきれんわ
瓦までが白ずんで、ものを言わねーよ
まったくもう
小鳥も鳴かないのに
犬っころだけは風の中で啼いてやがるよ

 

通りじゃ石つぶては飛ぶし、
地面は乾いちゃって
潤いがないし、
車のタイヤの色さえ寒々しいや
ぼくを追い越してぶっ飛ばしていく

 

山だってまったく殺風景だ
鈍いグレーな空には何にもない
部屋に引きこもっているぼくは
愚痴っぽくなるばっかりですよ

 

ああ、寒い寒い、こう寒くちゃやりきれんわ
お行儀のよい人々が
幸せ呆けしたうすら笑いを見せても
ぼくにゃ関係ない
大声あげて春を呼び戻すのだ

 

瓦、小鳥、犬っころ……
石つぶて、地、車……
山、グレーな空、部屋……
お行儀のよい人々の笑い……

 

これらの語句に
詩人は
どのような意味を込め
どのような心境を告白したのでしょうか
それらを
いったい、だれに向かって
言いたかったのでしょうか

 

(つづく)

 

 * 
 寒い!

 

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

 

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

 

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

 

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。—しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月11日 (月)

「曇天」までのいくつかの詩<23>「寒い!」と「我がヂレンマ」

この頃彼が雑誌に発表するのは_「むなしさ」「冬の夜」のような旧作でなければ、
「寒い!」「我がヂレンマ」のような、_詩人の心境を、あまり巧みではなく告白した詩である。

 

と、大岡昇平が記す
2作品を読んでみます。
心境詩、とか、告白詩、とか、
大岡は、
中原中也の詩作品に、
いろいろな分類を試みています。

 

「寒い!」と「我がヂレンマ」は
どちらも、生前発表詩篇で、
「寒い!」は、「四季」(1935年3月)に、
「我がヂレンマ」は、「北の海」とともに、
第1次「歴程」創刊号(1935年5月)に、
それぞれ掲載されました。

 

つまり、
1935年、昭和10年ごろの
中也の、心境が告白されている
ということになり、
その頃の
詩人の人間関係が
想像できる、ということでもあります。

 

この頃、詩人は
妻・孝子と長男文也ともども
東京は新宿の花園アパートに
暮らしていました。
大岡昇平が、
初めにそう呼んだことから
その呼び方が定着した
かの有名な
青山学院は、
階下にあり、
青山二郎が住んでいました。

 

(つづく)

 

 * 
 寒い!

 

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

 

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

 

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

 

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。—しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月 8日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<22>月夜とポプラ

「月夜とポプラ」は、
「草稿詩篇」(1933年~1936年)の後半部、
「誘蛾燈詠歌」と「吾子よ吾子」の間あたりにある、
といえば、おおよそ見当がつくでしょうか。

 

1935年(昭和10年)の制作と推定され、
この時期、
というのは、長男文也が生まれ
死亡するまでの間のことですが、
この時期に、
いくつか、
「死を思う」作品が
見られるのです。

 

「大島行葵丸にて」には、
甲板から海に唾(ツバ)を吐いたシーンがあり、
「夜半の嵐」には、
痰を吐いた後、寝床に入って、
松風を聞いているシーンがありますが、

 

これらは、
身体の不調を表す詩句でもありまして、
不調が、ただちに死と結びつくほどの
重篤なものではなかったにせよ
詩人の創作意識は、
死を格好の材料としたがったことが
想像されます。
いかがでしょうか。

 

中原中也の作品に
しばしば見られる
不気味なイメージや
死のイメージを
喚起させる詩の一つに
この「月夜とポプラ」は
数えることができます。

 

この流れは、
1934年制作の「骨」に連なるもので、
そこでは、すでに、
死後のイメージが
ビビッドに実現されていたのですが、
「月夜とポプラ」は、
そのバージョンです。

 

死そのもののイメージ
死後のイメージ
あの世のイメージ
……
死にまつわる歌として
読める作品の一つです。

 

木の下の陰の部分には幽霊がいて、
生まれたばかりで
翼(はね)もか弱いコウモリに似ているのですが
そいつは、キミの命を狙っている

 

キミは、そいつを捕まえて
殺してしまえばよいものを
実は、そいつ、
影だから捕まえられない
しかも、そいつは、たまにしか見えない

 

ぼくは、そいつを、捕まえてやろうと
長い年月、考え苦しんできた
でも、そいつを捕まえられないでいる

 

捕まらないと分かった今晩、
そいつは、
なんとも、かんとも、
ありありと見えるようになった

 

尻切れトンボのような
詩の終わり方は
中也がよく使う手であります
断絶感を読者に与えて
印象を強くするという方法。

 

死というやつを
詩人は
ありありと
見ることができるようになった!

 

 *
 月夜とポプラ

 

木の下かげには幽霊がゐる
その幽霊は、生まれたばかりの
まだ翼(はね)弱い蝙蝠(かうもり)に似て、
而も(しかも)それが君の命を
やがては覘(ねら)はう待構へてゐる
(木の下かげには、かうもりがゐる。)
そのかうもりを君が捕つて
殺してしまへばいいやうなものの
それは、影だ、手にはとられぬ
而も時偶(ときたま)見えるに過ぎない。
僕はそれを捕つてやらうと、
長い歳月考へあぐむだ。
けれどもそれは遂に捕れない、
捕れないと分つた今晩それは、
なんともかんともありありと見えるー

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月 6日 (水)

「曇天」までのいくつかの詩<21>雲

Nyage

 

 

 

「別離」(十一月十三日)「初恋集」(十年一月十一日)「雲」などの感傷詩では、
幼年時のはかない恋情に意味がつけられ、

と、大岡昇平は、
この3作品を同列に評しています。
感傷詩、というレッテルも貼っています。

 

「雲」は、批判的意志を含めて読めば
確かに、感傷詩と言えますが
詩人は、恋愛詩のつもりで
書いたものでありましょう。
「草稿詩篇」(1933年~1936年)の
「夜半の嵐」の次に配置されています。

 

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

 

と、「夜半の嵐」で歌ってから、
それほど時間はかかっていないはずの制作です。

 

山の上を雲が流れてゆくのを
ここ=平地から眺める詩人は
あそこで、お弁当を食べたことを思い出し、
一緒にいた女の子のその後を考え、

 

女性というものは
桜の花びらが
喜んで散っていくように
結婚していくものなんだ……

 

遠い過去も近い過去も
遠ければ遠いで手が届かないし
近ければ近いであまりに鮮やかであるし
同じことだ……

 

山の上で空を見るのも
ここであの山を見るのも
同じことだから
動かないでいいんだ
動くな動くな
これでいいんだ

 

枯れ草の上に寝て
やわらかなぬくもりを感じながら
空の青の、冷たく透き通ったのを見て
煙草を吸うなどができるということは
世界的幸福というもんだ
などと考えをめぐらします。

 

痰のからむ身体でありながら
煙草を一服しながら
どこかの野原の枯れ草に寝ころび
行く雲の流れを眺め
時には居眠りし……

 

というと、
詩友、高森文夫を
宮城県東臼杵郡東郷村の山奥に訪ねたときに
撮影された、
有名な写真のことを
思わずにいられませんが、
その時に作られた歌ではありません。

 

詩人は、
長男・文也の死を予感することはなくとも
自分の死を
意識することがあったのかもしれません。
この詩を、感傷と片付けるには
惜しい。

 

幸福などというものに
ほど遠かった詩人が
世界的幸福
などというのですから
ここには、やはり
悲しみに深さがあります。

 

(つづく)

 *
 雲

山の上には雲が流れてゐた
あの山の上で、お辨当を食つたこともある……
  女の子なぞといふものは
  由来桜の花瓣(はなびら)のやうに、
  欣んで散りゆくものだ

  近い過去も遠いい過去もおんなじこつた
  近い過去はあんまりまざまざ顕現するし
  遠い過去はあんまりもう手が届かない

山の上に寝て、空を見るのも
此処(ここ)にゐて、あの山をみるのも
所詮は同じ、動くな動くな

あゝ枯草を背に敷いて
やんわりむくもつてゐることは
空の青が、少し冷たくみえることは
煙草を喫ふなぞといふことは
世界的幸福である

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月 5日 (火)

「曇天」までのいくつかの詩<20>初恋集4

Circus

 

「初恋集」は「終歌」によって
恋愛詩としての質的転換を
見せようとします。
ここに、
中原中也がいます。
その非凡があります。

 

それが、成功したかどうか
人によって感じ方はさまざまでしょう

 

いきなり、

 

噛んでやれ、
叩いてやれ。
吐き出してやれ。

 

です。
何事が起きているのだろう、と
読み手は、
詩の構造を探ろうとします。

 

マシマロやい、で、
ふくよかな
ふわふわした、
柔らかな
女性に向かっていることが
分かります。

 

ああ、懐かしい
ああ、恨めしい

 

今度会ったら
今度会ったら

 

叩いて、
噛んで、
噛んで、
叩いてやろう

 

ぼくを、
ひとりぼっちにさせておいた罰だ

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

   すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

「曇天」までのいくつかの詩<19>初恋集3

131

 

 

 

 

「初恋集」の「むつよ」を
読み下しておきます。

 

先の「すずえ」とともに
「むつよ」も、
人並はずれて早熟な
若き詩人の初恋を歌っていて、
大岡昇平は、どこかで、
実在の女性であったことを指摘していますが、
詳しくは知られていないようです。

 

長谷川泰子以外の女性という点で
面白く、
なぜ、この時期に、
泰子以外の女性が歌われたのか、と、
考えながら読んでも
面白いでしょう。

 

あなたはぼくより一つ年上で
何かといっては、姉さん気取りでしたが、
ぼくのほうが、しっかりしていると、
いつもぼくは思っていました

 

ほんとに、今思えば幼い恋でしたよ
ぼくが13、あなたは14
その後、あなたはぼくから去りましたが
ぼくはいつまでか、あなたを思っていました……

 

しばらくして後、
野原に、ぼくの家の山羊が放し飼いしてあったのを
あなたは、長い時間、遊んでいたことがありました

 

ぼくは、背戸から
あなたを見ていたのでした
ぼくが、どんなにうれしくて
泣きたいような気持ちで
あなたが山羊と遊ぶのを見ていましたことでしょう
野原の若草に、夕日が斜めに射しているのですが
なんともきれいな、涙のような夕日だった

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

   すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「曇天」までのいくつかの詩<18>初恋集ほか2

「初恋集」から
「すずえ」を読み下してみます。

 

早熟な中原中也の
初恋の記憶です。
この作品が、
昭和10年、1935年に作られた
ということが
中原中也的なことと言えるかもしれません。

 

この年、
天皇機関説事件が世の中を騒がし
翌年には、2・26事件が起こります
翌々年は、盧溝橋事件……と
戦争戦争戦争の時代へ
まっしぐらの
日本国でした

 

あなたと会ったということは
現実のことなのか
実際にあったことなのか
遠い日のことになってしまった

 

ぼくがあなたという女性と出会い
愛し愛されたというのは
本当のことでしょうか

 

あなたは14
ぼく15
冬休みでした
親戚の家でたまたま知って
1週間だけ、同じ屋根の下で暮らしたのでした

 

ああ、そんなことがあったのは本当のことなのか
そんなことがあったことは間違いないけれど
今は、本当には思えない
あなたの顔はくっきりと覚えているけど

 

あなたはその後、遠い外国のどこかへ
お嫁にいったと聞きました
それを話してくれた男は
ひとつも驚く風もなく
普通の顔付きで話すのでした
まったく普通の顔で

 

子どもも二人いて、
旦那は会社員だと話しました

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

   すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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