「曇天」というエポック<2>
ここで、
「草稿詩篇1933〜1936」が
作られた時期から
最晩年へ至る
詩人の年譜を見ておきます。
「曇天」(1936年5月制作)の位置が、
少し、見えますか。
「曇天」は、
長男・文也の死より前に書かれ
この時、詩人は、文也の死を夢にも思っていませんでした。
もう一つ。
この時期、
詩人は、
東京外国語学校専修科を修了しました。
フランス語の勉強をブラッシュアップし
ランボーの訳者としての仕事が
評価されていることに注目しておきましょう。
1931年昭和6年 東京外国語学校入学。
弟・恰三が病死。
1932年昭和7年 山羊の歌」編集を開始。資金不足で中断。
1933年昭和8年 東京外国語学校専修科修了。
上野孝子と結婚。東京四谷の花園アパートに住む。
いくつかの同人誌に作品発表。
訳詩集「ランボオ詩集<学校時代の詩>」を三笠書房から刊行。
1934年昭和9年 長男・文也が誕生。
「山羊の歌」を文圃堂から出版。
1935年昭和10年 小林秀雄が「文学界」編集責任者となり、中也の発表増加。
1936年昭和11年 6月、訳詩集「ランボオ詩抄」を山本書店から刊行。
11月、長男・文也死亡。
12月、次男・愛雅誕生。
中也の神経は衰弱しはじめる。
1937年昭和11年 千葉県の療養所に入院。
鎌倉転居。夏に帰郷。
9月、「ランボー詩集」を野田書房から刊行。
同月、「在りし日の歌」を編集。
10月に結核性脳膜炎を発病。同22日に永眠。
*
曇天
ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
手繰り 下ろさうと 僕は したが、
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。
かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。
かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」
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