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カテゴリー「058中原中也の同時代/諸井三郎」の記事

2011年2月12日 (土)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続4>

昭和7年(1932年)に、諸井三郎はドイツへ留学しますが、そのことによって音楽集団「スルヤ」は解散します。「スルヤ」は諸井が東京帝大3学年のとき(1927年)、諸井の主導で設立された「作品発表のための集団」でしたから、解散は自然の成り行きでした。

 

諸井三郎の「交響曲第一番」は、このドイツ留学中の1934年に作曲されたということですから、「ドイツ留学の直前には、私の作風は大きな変化の兆候をあらわしていたのだが、この変化は、中也には気に入らなかったらしい。」と記されてはいるものの、この曲と中原中也には、なんらかのつながりが推測され、「身近な感じ」がしてくるというものです。(もちろん、作曲に直接的影響を及ぼしたなどといっているのではありません)

 

 激しく対立した中原中也との議論の影響、その痕跡がうかがわれやしまいか、と想像しながら、この曲を聴いても、それほどおかしなことではないかもしれませんが、曲は演奏されることがなく、録音版もないので、夢のまた夢みたいなことですが……。

 

角川書店版中原中也全集の旧版(旧全集)付録「月報Ⅰ」に、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」からの引用・紹介を続けます。これで、終わりです。

 

(以下引用)

 

 私たち「スルヤ」の同人は、毎週水曜日に長井維理(ういり)のサロンに集って、音楽の練習をし、芸術論を戦わせた。この会合には、島崎藤村もこられたことがある。中也は毎回必ず出席し、いろいろの音楽を聞きたがり、又私が作ったいろいろの曲を聞いて、しきりに意見を述べたものだった。議論の末に、よく中也は田宮博とけんかになった。生物学の研究者であった田宮博は、チェロをよく弾き、いつも私のチェロソナタを弾いてくれたが、すぐれた自然科学者としての彼には、中也の言動が我慢出来なかったらしい。二人はずい分はげしいけんかをしたものだったが、一週間経つと、又顔を合せ、音楽を聞き、芸術論をくり返したのである。議論の内容は、もう憶えていないが、情熱にあふれた青年たちだったから、随分つまらないことで、云い合いをしたこともあったと思う。「スルヤ」は昭和七年に私がドイツへ留学することによって、自然その活動を停止した。そして再び結成されることなく、同人は一人一人自分の道を歩いていったわけである。ドイツから帰ってきてからは、あまり中也と会う機会もなかった。ドイツ留学の直前には、私の作風は大きな変化の兆候をあらわしていたのだが、この変化は、中也には気に入らなかったらしい。彼は私の音楽について、あまり物をいわなくなったのを憶えている。
 中原中也の詩が今日のように認められたことは、何といっても、私にとっては大きな喜びである。

2011年2月 2日 (水)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続2>

「角川新全集第1巻詩Ⅰ解題篇」の「朝の歌」の項には、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」という一文が紹介されています。これは、角川書店版の中原中也全集の旧版(旧全集)に付録として添付されていた「月報Ⅰ」に掲載されたものですが、丁度、手元に、その「月報Ⅰ」がありましたから、ここではこちらを元にあらましを引用しておきます。「月報Ⅰ」は、昭和42年(1967年)の発行になり、「『スルヤ』の頃の中原中也」は先に紹介した「スルヤ」第2輯から、およそ40年後に書かれた回想記ということになり、B5版で2ページ弱の小文です。諸井三郎は、1903年生まれですから、63歳前後に書いたことになります。

 

 「スルヤ」の頃といえば、もう四十年も前のことになる。もはや遠い昔の思い出となった時代である。「スルヤ」といっても知らない方が多いと思うが、これは、内海誓一郎や私などの作曲を発表する芸術団体で、そのメンバーのなかには、小林秀雄、今日出海、河上徹太郎、田宮博、安川寛、関口隆克などの人々が加わっていたが、中原中也も参加していたわけである。

 

 これらの人々は今日でこそそれぞれの分野の代表的人物になったが、その当時はいずれも無名で、文学や音楽に夢中になっていた、いはば芸術につかれた青年たちだったわけだ。そして、当時の思い出は数限りなくあるが、いずれもなつかしいものばかりで、今日になって見れば、ほんとうに恵まれたみのり豊かな青年時代だったと思う。

 

 中也と私の出会い、これは今でもはっきりと憶えている印象の強いものだった。そのころ中野駅の近くに住んでいた私は、ある日、買物をしようと家を出た。少しいった細い道で、まことに変った格好をした一人の若者とすれ違った。一目で芸術にうつつを抜かしているとわかるような格好だったが、黒い、短いマントを着、それに黒いソフトのような帽子をかぶった、背の低い、小柄なその人物は、一種異様な、しかし強烈な印象を与えずにはおかなかったが、お互になにか心にひっかかるのを感じながら、その時は、そのまますれ違ってしまった。

 

 買物をすませて家に帰り、しばらく家で休んでいると、玄関に人の声がする。出て見ると、そこにさっきの黒ずくめの青年が立っている。私が用件をたずねると、彼は一通の紹介状を出した。それは河上徹太郎の書いたものだったが、それによって、私は彼が中原中也なる詩人であることを知ったわけである。

 

*長くなるので、今回はここまでの引用でやめておきます。中原中也は、ぶしつけな夜襲を敢行したのではなく、一定の礼儀を忘れずに、初対面の人物との交友をはじめたということが、よく見える描写です。はじめの「すれ違い」のシーンなどは、様子見とか逡巡とかをさえ感じさせる詩人の行動を想像させ、ナイーブでさえあります。

 

(この項つづく)

 

Senpuki04

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2011年2月 1日 (火)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続>

音楽評論家・吉田秀和さんが、作曲家・諸井三郎と中原中也の議論を目撃したことについて、著作『永遠の故郷』が完結したのを機に取材を受け、そのことが朝日新聞に紹介されたことにふれて、この欄で、同じように中原中也と諸井三郎の議論を目撃した関口隆克の発言について記しましたが、今度は、諸井三郎自身の発言にめぐり合いましたので、ここに案内しておきます。

 

諸井三郎は、中原中也の「朝の歌」や「臨終」に作曲したいきさつを、昭和3年5月発行の「スルヤ」第2輯に「雑感」と題して書いていることが、「角川新全集第1巻詩Ⅰ解題篇」で読むことができます。同書で「朝の歌」の制作過程が綿密に考証されているものの中に、参考資料として、この「雑感」の一部が紹介されていて、知る人ぞ知る、貴重な発言ですから、ここにそれを引用しておきます。

 

今度僕が作曲した「臨終」と「朝の歌」の作者中原中也は最近出来た僕の友達だ。今年の一月の末の或る寒い夕方特徴のある、マントを着て、突然僕の家を襲つたのだ。本当に彼は襲つたのだ。僕の家の戸を開けて、一番初めに「僕は不良少年ぢゃないんです」と云つたんだ。だが今は深い交りを結んでゐる。彼は無名の青年詩人――確か二十二だらう――だが今にえらくなるだらう。身体は小さいが魂は充ちてゐる.。/いつも色々な事を云つてゐる。「朝の歌」は彼の傑作だ。僕の大好きな詩だ。これに作曲するのには随分長い事考へた。書いたのは一夜だつた。誰でもこの詩と曲とは、好きになつて呉れるに違いない。

 

Senpuki04

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2011年1月18日 (火)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて

 「97歳 音楽批評への挑戦 吉田さん『永遠の故郷』完結」と題する昨日1月17日朝日新聞朝刊文化面の記事は、署名入りの女性記者(吉田純子)によるものですが、核心にふれる部分で、中原中也が登場しています。

 

「チャイコフスキーの『舟歌』やマスネーの『エレジー』の節にのせて自作の詩を歌」ったという詩人の貴重なエピソードなどが紹介されており、全文が「Asahi com」で読めますからぜひ目を通しておきたい記事ですが、他に、作曲家の諸井三郎を「しばしば論破する中也」について語っているくだりがあって、中原中也と「スルヤ」との交渉がよみがえってくるきっかけになりました。

 

世田谷・北沢で詩人と共同生活をしたことのある年上の僚友・関口隆克が、文学界の「中原中也追悼号」(昭和12年12月1日発行)で「北沢時代以後」を寄せていますが、中に、諸井三郎と詩人が「烈しく議論を続け」たシーンが描かれています。

 

中原中也と関口隆克と石田五郎の3人による共同生活のはじまりを記す中で、諸井三郎が登場します。関口は諸井が連れてきた中原中也と初対面でしたが、諸井と詩人は関口の住まいにやってくる道すがら議論に熱中し、関口のところへ来ても、関口をおいてすぐに二人で外での散歩を続けて議論を続行した、ということが紹介されているのです。

 

そのくだりのさわり――。

 

(略)諸井三郎が見知らぬ客と這入って来た。それが中原であった。二人は途々何か話をして来たらしく、直ぐに烈しく議論を続け、手持無沙汰の僕に中原は懐中から原稿紙の束を出して渡し、まだ話し乍ら散歩に出て行った儘暫くは帰って来なかった。原稿紙には美しい筆跡で、後に「山羊の歌」の前の方に収められた詩の幾篇かが書いてあった。僕はそれらの詩の特異の美しさに驚嘆した。二人は戻って来た。(略)
(「文学界」同上号より。現代語に改めてあります。編者。)

 

吉田秀和さんは、中原中也と諸井三郎の議論を目撃したのだし、詩人が作曲家を「しばしば論破」したのを見たのです。もちろん、議論の勝敗が問題ではありません。

 

朝日の記事は「中也もトーマス・マンも、音楽の勉強をどうやったかなんて僕は知らない。だけど、本当に誰よりも音楽を知っていた」という、吉田さんのコメントで「中也」の項を結んでいます。

 

関口隆克も、先の「北沢時代以後」で、「中原中也の音楽」について、次のように記しています。

 

その頃諸井や内海は「スルヤ」という会をつくって、作曲を発表していたが、中原の「朝の歌」、「臨終」、「故郷」、「失せし希望」などに曲がついて、演奏会で幾度か長井維理氏が歌った。毎週一度皆は長井さんの邸に集って、稽古をしたり、色々な話をしたりしたが、中原もよくこれに出て、熱心に議論をしたり時には喧嘩をしたりした。又スルヤのパンフレットに論文を書いたこともあった。こうして出来た中原の歌の曲は、真剣な交感と深い了得の中に生れ、練習された、実に立派なものであった。こういう本物の歌曲が残されたことは、詩人として酬われることの薄いかに見えた中原の努力の正しい価値を示す、本当の意味の幸福と言わねばならぬ。

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